お知らせ
きっと馬九いく!大堀相馬焼は浪江の皆さんと共に(8) 鈴木裕次郎さん
第8回:鈴木裕次郎さん
有限会社 鈴木新聞舗 代表取締役
浪江町大堀地区に受け継がれてきた伝統工芸品「大堀相馬焼」。左馬(右に出るものがいない)、九頭馬(馬九行久=うまくいく)の絵柄は、日常使いだけでなく縁起物として開店祝いなどの贈答にも用いられ、喜ばれてきました。このシリーズでは、少しずつ活気を取り戻しつつある浪江町でお店を再開したり事業を開始したりしているみなさんをお訪ねし、抱負を伺います。
今回は、2016年11月に町の一部で準備宿泊*が始まって間もなく、たった一人で新聞配達を再開してまもなく丸2年となる鈴木新聞舗・鈴木裕次郎さんをご紹介します。
*準備宿泊=原発事故避難区域において、避難指示の解除前に住民が帰還の準備をするため町内での宿泊を許可された制度
誰かがやらなければ・・・
活字離れ・新聞離れが進んでいると言われて久しい世の中ですが、東日本大震災前の浪江町では町民の新聞購読率は85%と高かったそうです。特に高齢者にとっては、「新聞とは『あって当然』のもの。生活の一部なんですよ」と語るのは、3代80年続く鈴木新聞舗の代表取締役、鈴木裕次郎さんです。今年35歳という若き社長ですが、8年前にお父様から経営を引き継いだときはまだ20代。大震災の直前のことでした。
裕次郎さんは、お兄様に代わって家業を継ぐことが来まった19歳のとき、東京の新聞店へ2年間の修業に行ったそうです。そこは競争が厳しい東京の中でもいちばんの激戦区といわれる地域。この2年間を裕次郎さんは、「いちばんキツかった。朝から晩まで無我夢中でした」と振り返り、「この修業があったから、今の(厳しい経営環境の)浪江でも新聞店を続けていられる」とおっしゃいます。
鈴木新聞舗が浪江で配達を再開したのは、2017年1月25日。前年の11月に準備宿泊が始まったとき、町役場からぜひ再開してほしいという依頼を受けた裕次郎さんですが、最初は断ったといいます。
「採算がとれないことは分かっていましたからね。その前年に結婚して子供も生まれる予定でしたし、親にも大反対されました。震災から5年半、避難先を転々とする中で、自分はもう鈴木新聞舗は廃業するつもりだったんです。ほかの商売なら別の土地へ移ってやり直すこともできますが、新聞店にはテリトリーというものがあってそれができない。キャリアチェンジするつもりで、郡山で介護福祉士の勉強を始めたところでした」
その一方で裕次郎さんは、町民にとって新聞がどれだけ大切なものかを肌身で知っていました。大震災翌朝の新聞も可能な限り配達しようとし、届けられなかった新聞を避難所の体育館に持参したとき、我先に手に取って食い入るように読む町の人たちの姿も、きっと脳裏によみがえったことでしょう。悩んだ末、最終的に営業再開を決断したのは、「誰かがやらなければ」という使命感だったといいます。
そして、たった一人の鈴木新聞舗が再開したのでした。最初の配達先は10戸だったそうです。
見守りの役割も果たす、新聞の仕事
毎朝新聞が届くのを当たり前と思っている人は多いでしょうが、あらためて考えれば、新聞の休刊日は月に一度だけ。文字通り盆も正月も休むことができない大変な仕事です。鈴木新聞舗が扱うのは福島民友・朝日・読売の3紙。震災前は約3,000部を20人態勢で配達していましたが、現在は町内150戸のお客様をすべて裕次郎さん一人で回らなければなりません。何があっても朝2時半には出勤、7時までかかってなんとか配達を終え、短い休憩をはさんでチラシの折り込み、請求書作成などの事務、そして集金・・・。
現状では、新たな申込があっても場所によってはお断りせざるを得ないこともあるそう。だからといって今の売上ではスタッフの増員も難しく、以前のように配達とあわせて物販などに手を広げようにも人手が足りません。「身動きがとれず、ジレンマですね」という裕次郎さんの声は、しかし、淡々と穏やかです。
時間はかかっても集金のときにお客様一人ひとりと言葉を交わすのは、高齢者が多い町民世帯の見守りの役割も担っていることを自認されているから。また、町内にオープンしたお店の情報を紹介する「かわらばん」も自ら作って配布しておられ、「これを楽しみにしてくださる方も多いんですよ」と語るお顔は嬉しそうでした。
離れてみてわかった、ふるさとの「いいもの」たち
町民の生活に欠かせない情報インフラである新聞を、どうかこれからも元気で届けていただきたいという願いを込めて、裕次郎さんには西郷村で再開している松永窯の夫婦湯呑を差し上げました。松永和生さんの駒絵が描かれた大きめの湯呑。寒い季節、まだ暗いうちからのお仕事は大変でしょうが、ぜひ熱いお茶で身体を温めていただきたいものです。
「この左馬って縁起がいいんですか?右に出るものがいない?なるほど・・・知らなかったです(笑)」とおっしゃる裕次郎さんは、浪江町の中でも権現堂という市街地の生まれ育ち。大堀相馬焼のふるさとである大堀地区とは少し離れていますが、やはり家では馬の絵が描かれた食器を使っていたそう。
「やっぱりいいですね、こういう伝統のものは。昔からあって当たり前のものだったから、特に興味も思い入れもなかったんですよ。でも歳をとってきて、震災で浪江を離れてみて、あぁ地元にこんないいものがあってよかったな、と思うようになりました。相馬野馬追もそう。小さいころから毎年目の前で(騎馬行列や神旗争奪戦を)やってて、何が楽しいんだろうって思ってましたが(笑)、今年7年ぶりに町内で復活したのを見たら実に感慨深いものがありました。こういう伝統は、誰か守ってくれる人がいなければ困りますからね」
営業再開したことを「正解だったかどうかはわからない」とおっしゃる裕次郎さん。まだ30代半ばにして、これまでに迫られた選択と覚悟、乗り越えて来た試練は、想像を超えます。昨年お子さんが生まれて背負うものが一段と大きくなり、今後も町の復興への使命感と家族への責任感との間で、悩みながらも毅然とした選択をされていくのでしょう。そのすべてを「正解」にできるよう、これからも益々のご活躍をお祈りいたします。
(取材・文・写真=中川雅美 2018年10月)