大堀相馬焼 松永陶器店

HISTORY

大堀相馬焼の歴史

大堀相馬焼の起こり

1690
大堀相馬焼創業 「大堀相馬焼左馬茶碗」発売
福島県双葉郡浪江町大字大堀一円で生産される焼物の総称です。 旧藩政時代には相馬焼と呼んでいましたが、国の伝統的工芸品指定以後は、産地名である「大堀」の名を入れた大堀相馬焼として広く知られています。 元禄年間に中村藩士の半谷休閑が大堀(浪江町大堀)で陶器を発見し、下男の左馬に命じて日用雑器を焼き始めたのがはじまり。 中村城下の相馬駒焼は藩主相馬氏への献上品として親しまれたのに対して、この大堀相馬焼は民窯として長く親しまれてきました。
1697
相馬藩庁 「瀬戸物師、他領江不可出事」を布令
相馬藩では、これを藩の特産物にしようと産地に瀬戸役所を設置して、資金の援助や原材料の確保など保護育成に努めました。これにより大堀の窯業は農家の副業として近隣八ヶ村に普及 江戸時代末期には窯元も100戸を越えました。
1830
半谷滝三郎が絵付け研究をはじめ、このころから駒絵が描かれるようになる。
中村藩は相馬野馬追の伝統を有するため、藩主相馬氏の家紋から繋ぎ駒や走り駒が意匠となっており、縁起物として親しまれてきました。
1853
益子焼の起こりとともに、職人数名が技術指導に出かける。
販路も北海道から関東一円、更には信州越後地方方面まで広がり、一大産地へと発展。それに伴い、技術も伝達してきました。結果的に益子焼・笠間焼をはじめとするの他県の産地のルーツとなりました。

伝統の確立

1863
青ひびが作られる。
1883
東京の問屋 宮内松五郎のすすめで、水金の駒絵はじまる。
1899
坂本熊次郎 二重焼き創案

明治期から廃藩置県により藩の援助がなくなったことに加え、交通の発達による他産地との競争激化、差別化を図ろうとした窯元は知恵を絞りました。この努力が現在の大堀相馬焼の「青ひび」「二重焼」という個性を生み出します。

海外輸出へ

1950
「ダブルカップ」の愛称でアメリカを中心に海外で親しまれる。
1978
通産省(現 経産省)の伝統的工芸品の指定を受ける。

戦争による大きな打撃により、太平洋戦争の終結時まで大堀相馬焼は冬の時代を迎えました。 しかし戦後、アメリカへの輸出で産地は協力に立ち上がりました。
二重の湯呑み「Made in Japan」の刻印をして輸出したことで一大ブームに。アメリカでは「アイディアカップ」、「ダブルカップ」という名称で愛用されました。

バブル崩壊と東日本大震災

2002
「陶芸の杜 おおぼり」完成
2011年3月11日
東日本大震災発生。産地である浪江町が帰宅困難区域に指定され、25件の窯元が離散。
2021
大堀相馬焼協同組合が二本松市に「陶芸の杜 おおぼり二本松工房」建設。
2015
現在の10窯元が再興。県内外で作陶を続ける。

バブル崩壊後は、昔から続いていた一子相伝による、新規参入の敷居の高さや、市場の動きについていけず、売上は年々減っていき、後継者もいなくなり、廃業する窯元も少なくありませんでした。
そんな中、2011年3月11日東日本大震災が発生します。産地である浪江町は帰宅困難区域に指定されます。現在は福島、二本松、郡山、南相馬、会津、愛知、大分など県内外に再建しています。それぞれが新天地で浪江町の貴重なアイデンティティを残すために日々新しい作品を作りづつけています。