大堀相馬焼 松永陶器店

お知らせ

【私と大堀相馬焼】〜第1回 鈴木博子さん・慎太郎さん〜

浪江町大堀地区に受け継がれてきた伝統工芸品「大堀相馬焼」は、地域の人々にどれほど親しまれてきたのでしょうか。大堀相馬焼にまつわる思い出やエピソードをご紹介するインタビューです。

今回は、焼き物が大好きとおっしゃる鈴木博子さんと、息子さんの慎太郎さんにお話を伺いました。
DSC_1347(写真=たくさんのお気に入りの大堀相馬焼との器たちといっしょに。)

「ひび」に魅せられて

博子さんのお生まれは浪江町のお隣の双葉町。もともと陶器がお好きで、全国の焼き物の里を訪ねてお気に入りの器を集めてこられました。浪江町にはお仕事などで20年ほどお住まいになったそうですが、その間はもちろん大堀相馬焼の里、大堀地区の窯元さんを訪れ、作品を購入するだけでなくご自身でも器を作らせてもらっていたそうです。

DSC_1353(写真=博子さんのお母さまが絵付けをされ、大堀の窯で焼いてもらったというすてきなお皿)

「相馬焼でいちばん好きなのは、この『ひび』ですね。窯から出したとき、この『ひび』が入るぴりっぴりっという音がするんですが、それが大好きで。仲良くしていた窯元さんのところに行って、よくその音を聞かせてもらっていました」(この音は「貫入音」といいます。詳しくはこちらをどうぞ)

息子さんの慎太郎さんは、生まれてから小学校時代までを浪江で過ごされました。遠足で大堀相馬焼の絵付け体験をした記憶があるそうですが、「陶器の良さ」がわかるには、まだお若すぎたのかもしれません。よくお母さまに連れられ、窯元さんや登り窯まつりなどへ行ったものの、「いつも、なんで自分はこんなところにいるんだろうって思ってました(笑)」

そんな慎太郎さんも、社会に出てお酒を飲むようになって、少しずつ器にも興味を持つようになったとか。でも、大堀相馬焼との本格的な「再会」を果たしたきかっけは、2011年の東日本大震災だったといいます。

震災を生き延びた器たち

そのころ、東京で飲食店の仕事をされていた慎太郎さんは、双葉町にあるお祖母さまの家へ片付けに行き、そこで割れずに残っていた器たちを発見します。

「店では大堀相馬焼の器を使う気はなかったんですよ。でも、震災と原発事故があって、もうあの場所には入れない(注:大堀地区は現在でも帰還困難区域となっています)、土がとれないから、もう相馬焼は作れないんじゃないか、って聞いて。だったら、せっかく残った器を使って、福島の地酒や地のものを出すのも、いいかなと思ったんです。

使ってみたら、やっぱりよかったですね。当時は、福島のためにと言って店においでくださったり、『今こういう状況なんです』と説明しながらお出しすると、興味を持ってくださるお客様もいらっしゃいました。ストーリーを知って飲めば、お酒の味も変わってくるのでしょう」

そのころから、慎太郎さんの「コレクション」も始まりました。伝統的な大堀相馬焼のスタイルに限らず、デザインが気に入ったものを集めておられます。「先日もこれを買ってきました」と見せてくださったのは、白河で再開している窯元さんの手による、白いモダンな湯呑と椀。でも、よく見ると「ひび」が入っていて、たしかに相馬焼です。

伝統を守りながら進化する、大堀相馬焼とともにある暮らし

お話が進むにつれ、後から後から、たくさんの相馬焼がテーブルの上に出てきました!これでもお二人のコレクションのほんの一部。このほかにも、日本全国から集めた器たちが、お食事やお酒にあわせて出番を待っています。全部でいくつくらいお持ちなのか伺ってみましたが、「多すぎて分かりません」(笑)

DSC_1361(写真=お仏壇にも、立派な大堀相馬焼の花瓶に見事なシャクヤクが飾られていました。)

博子さんも慎太郎さんも、「特にこの作家さん、この窯元さんと決めているわけではなくて、『出会い』なんです。いろんなお店や市にいって、あ、これいいな、と思ったら買ってくる」スタイルとのこと。

「大堀相馬焼は、ひびと走り駒という伝統的なものと、モダンなデザインのもの、両方があってすごくいいと思いますね。伝統を守りながら、進化していくというところがいい」(博子さん)

ほかにも、お使いものや贈りものにも大堀相馬焼は大活躍だそうで、この焼き物はほんとうに鈴木さんの暮らしとともにあるのだな、と感じられた取材でした。

DSC_1342(写真=博子さんが手にする湯呑は、最近購入されたものだそう。「親父の小言」は元々、浪江町の大聖寺に伝わる人生訓ですが、現在では、浪江町でスーパーを経営していた株式会社マツバヤさんの登録商標としていろいろな商品に展開されています。浪江時代にこのスーパーとご縁があった博子さんは、福島県内で再開した窯元さんの店でたまたまこの湯呑を発見。「あぁ懐かしいと」お求めになりました。)

(取材・文 ・写真= 中川雅美 2017年5月)